大会ヒストリー

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サロマ湖100kmウルトラマラソンの歴史

きっかけは1枚のポスター

100kmマラソンの舞台に「サロマ湖」が選ばれたきっかけは、一枚のポスター。1986年4月、宮古島トライアスロン(沖縄県)の取材で現地を訪れた株式会社アールビーズ(当時ランナーズ)の代表、橋本治朗氏が見たそのポスターは、両側を海に挟まれた“緑の森”を上空から撮影したものだった。「こんなところで走ることができたら……」――帰京するとすぐに、そのポスターの地、サロマ湖へ向かった。
サロマ湖を舞台に100kmマラソンを開催する――当時、あまりにも壮大な構想に、半信半疑ながらも協力してくれた地元の人たち。現地で実業団陸上部の合宿の世話をしていた方、リゾートホテルの総支配人、地元3町(湧別、佐呂間、常呂)の町長や助役さん……。警察との交渉や住民の理解が必要な国道での100kmマラソンは、地元の方々の尽力なしには実現しなかっただろう。
サロマ湖は1周92kmだが、オホーツク海に注ぐ糊口と、密漁防止のため立入禁止の区域を除くと、湖畔に沿うコースは約70km。そこに常呂川土手の往復などをプラスして、サロマ湖100kmマラソンのコースが誕生した。
第1回大会は、翌年に正式大会を開催するための「プレ大会」として、1986年9月14日(日)に開催。ランナーズ誌に掲載した告知で、全国から50数人のランナーが集まった(100kmに41人、50kmに17人)。100kmの部で優勝したのは、東京から来た丹代政俊さん(青梅若草RRC)で、記録は7時間49分17秒。秋晴れのこの日、真昼の太陽は少々暑すぎた。100kmの完走者は26人、最終ランナーは13時間36分32秒かけてゴールした。

翌、1987年には、正式な大会として開催され、100kmに216人、50kmには63人が参加。優勝したのは、実業団(小西六)に所属する井上浩司さん。タイムは、昨年の優勝記録を1時間近くも縮める6時間52分14秒。この記録は、その後4年間破られることはなかった。女子は、市民ランナーの鈴木隆子さんが9時間24分10秒で優勝。またこの年、歌手の高石ともやさんも初参加。完走後は表彰パーティーのなかでコンサートも行われた。
1988年になると、参加者は倍増し、100kmの部は526人に。以降は回を重ねるごとに参加者が増え、全国のランナーにとって憧れの大会へと育っていく。

ウルトラでは初の日本陸連公認レースに

1993年の第8回大会は、IAU(国際ウルトラマラソン協会)が主催する「IAUワールドチャレンジ」のプレ大会として位置づけられ、ウルトラマラソンでは初めて日本陸上競技連盟の公認レースに。そのため今大会より、一般の部のほかに陸連登記・登録競技者の部が設けられ、ウルトラマラソンの世界も競技派と楽しみ派の2つが存在するようになっていく。
100kmの部の参加者が1000人を超え、大会の人気は高まる一方。エントリー枠は前回より400人増の1600人としたものの、参加希望者はそれを大きく上回り、先着枠の1000人は募集開始直後に埋まってしまうほど(残り600人は抽選に)。
この年は、冷たい雨のせいで、身体が芯まで冷え切ってしまったランナーが多く、完走率は前年を10%も下回る63%だった。

世界一のウルトラランナーを決める大会として開催

1994年の第9回大会は、ウルトラマラソンの頂点にある「IAUワールドチャレンジ」として開催された。過去の開催地はヨーロッパに限られていたが、数年来サロマを訪れていたIAU会長のマルコム・キャンベル氏が、「最も美しいコースで、万全の体制で運営される大会」と評価したことが、アジア地区初の開催へとつながった。
海外からは18カ国、102人の選手が参加。前年の世界トップ10のうち大半が揃う、豪華メンバーが集結した。競技は個人戦のほか、各国代表6人のうち上位3人の合計タイムで競う国別対抗戦も併設された。
レースは国際大会ならではの白熱した盛り上がりを見せた。終盤は南アフリカのメイクルジョン、ポーランドのジャニッキー、ロシアのヴォルジンの三つ巴のトップ争いとなり、結果、優勝をさらったのはヴォルジンで、6時間22分43秒の好タイム。女子は、ロシアのシャトエヴァが7時間34分58秒で優勝した。日本勢の活躍も目覚ましく、仲川栄二さんが6時間33分38秒の日本最高記録をマークして総合6位に入り、国別対抗2位の原動力になった(国別1位はロシア)。

100km連続出場、サロマンブルーの誕生

1995年、第10回大会を迎え、参加者は100kmの部に1362人。この10年間で国内外のエリートランナーが参加する大会としても成長したが、市民ランナーが生み、市民ランナーが育てたウルトラマラソンであることは間違いない。
10周年記念大会となったこの年、第1回から連続出場してきた7人(内、1人は50km)のランナーが表彰された。彼らには、「サロマンブルー」の称号が与えられ、以来、この称号はウルトラランナーの憧れとなる。
また、記念大会にふさわしく、男女ともに日本最高記録が誕生。男子は近藤公成さんで6時間26分23秒、女子は広沢玲子さんで8時間5分18秒と、100kmマラソンのスピード化を印象づけるタイムだった。

砂田貴裕さんが世界最高記録を樹立

1998年の第13回大会では、実業団陸上部(積水化学)に所属する砂田貴裕さんが、6時間13分33秒の100kmロード世界最高記録を樹立した。スタート時の気温は11℃、冷たい霧雨が降り続くなかで、足の裏はふやけ、マメに苦しみながらの力走。1km3分40~50秒に設定したペースは、最初から最後までほぼイーブンだった。今回が100km初挑戦だった砂田さんは、「100kmは自分の我慢が最大に生かされる距離。苦しいときの精神面の弱さをどう越えるか、今後マラソンを走る上で大いにプラスになりました」と語っている。

安部友恵さんが女子世界最高記録

2000年の第15回大会には実業団の名門、旭化成陸上部の安部友恵さんが出場し、6時間33分11秒の驚異的な100km女子世界最高記録をマークした。50km地点までは男子選手をまじえて総合6位の位置につけていたが、後半も1km4分のペースを守り続け、落ちてくる男子選手を次々に拾って総合2位でフィニッシュ。それまでの女子100km世界最高記録を一気に27分37秒更新した。
98年の砂田貴裕さんに続き、再びサロマ湖での快挙。100kmの世界記録保持者が男女とも日本人になった瞬間だった。

IAUワールドカップとして開催

20回大会を迎えた2005年は、IAUワールドカップとして開催され、女子は翔ひろ子さんが7時間53分41秒で優勝し、世界チャンピオンに。男子は佐々勤さんが3位に入り、団体優勝に貢献した。
代表選手を除くエントリー数2823人は過去最多。この20年でサロマンブルーメンバー(10回完走者)は121人になった。

風見尚さんが世界最高記録を樹立

2018年の第33回大会では20年間やぶられなかったそれまでの記録を4分以上更新する6時間9分14秒の世界最高記録を愛三工業の風見尚さんが樹立した。

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